今年もまた芥川賞、直木賞が発表された。
ある時期までは、受賞作を必ず読んでいたが、
ここ数年、受賞作をはじめ、小説はほとんど読まなくなった。
「事実は小説より奇なり」ということを、実感として感じるからか。
そんな私が、昨年秋、takarinnさんにすすめられて
ノーベル文学賞を受賞した、カズオ・イシグロの作品「日の名残り」を
久しぶりに読んでみた。
その格調の高い表現、内容に、すぐに「この人はノーベル賞だ」
と直感した。
長編小説を読むには根気がいったが、この小説には
付き合うだけの価値がある。
takarinnさんは、源氏物語の研究家だけあって、
大変な読書家で、いまもたくさんの小説を読んでいる。
このカズオ・イシグロの小説は、なんと10年前に読んだという。
それも、親友のwakoさんの紹介だそう。
彼女たちの先見の明には驚くが、その筋の推薦のおこぼれにあずかることは
私にとってもうれしいことだ。
持つべきものは、よき友。
さて、そんな折、新年早々、日経新聞の文化欄に、村上春樹の顔写真入りの
原稿が載った。
彼は、アメリカの作家、レイモンド・チャンドラーの長編
全7作品の翻訳に、10年がかりで取り組んできたのが、
このほど訳し終えたというのである。
村上春樹といえば、ノーベル賞候補に何回も上がったが、
なかなか取れなくて、ファンをやきもきさせてきた。
テレビには登場しないし、雑誌や新聞にも絶対に顔を載せない。
マスコミに顔を出さないのはなぜだろうと、私は思っていた。
そう簡単に自分を安売りしたくない、つまり
かっこつけているのかな、と、ず〜っと思ってきた。
そうまでかたくなに隠れる必要もないだろうに。
思わせぶりだなぁ、と嫌味にさえ思った。
しかし、今回新聞に載った写真は、無精ひげもそっていない
寝起きのような顔である。
かっこつける人なら、もっといい写真を載せるだろうに、
どういう心境なのだろう、と考えた。
はた、と気づいたのは、このチャンドラーの作品を翻訳し終わるのは
並大抵の努力ではなかったはず。
「この仕事を終えるまでは、決して人前には出るまい」ぐらいの決心が
あったのではあるまいか。
これを訳しながら、ほかの作品も書いているわけだから、
何足の草鞋をも履いての仕事である。
よくぞやった!
私は、彼の心境が、ようやくわかった気がした。
作家を続ける努力は、半端なものではない。
ましてや、村上春樹ぐらいになると、なおさらだ。
私は彼の作品をあまり読んではいないので、
語ることはできないが、軽いタッチで書いていそうにみえても、
彼の姿勢は、相当にストイックなはずだ。
だから、ノーベル賞をとれるとか取れないとかは問題でなく、
自分に打ち勝てるかどうかが一番の問題だろう。
「ロング・グッドバイ」をはじめとしたチャンドラーの
ハードボイルド小説を訳す仕事について、
彼はこう語っている。
「僕にとってなによりうれしかったのは、この翻訳作業を
しっかりと隅々まで楽しみながら、やり遂げられたことだ。
もちろん翻訳自体はずいぶん骨が折れたけれど、それでもそれは
とても心愉しい,そして意味のある骨の折れ方だった」と回想している。
実に、作家冥利に尽きる感想だ。
そして、今回の顔写真。
ようやく人様の前に顔を出す心境になれた。
大きな仕事を終えた作家の満足な顔だ。
このひげ面は、誇らしいものである。
長い間、村上春樹を誤解していた。
彼は自分に厳しい、ほんとうにストイックな人だ。
それをかっこつけてる、なんて言っていた私は、
まだまだ人を見る目がなかった。
反省すべきは、わが軽さである。
新春一番の収穫だった。
色内の岸壁から、高島方面を眺める
ある晴れた日に、対岸から運河公園を臨む
港の埠頭に船が着いている
夕暮れの運河倉庫